067272 ランダム
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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

Stand By Me 1 (小説)

(これは以前私のHPに掲載した小説の再録です)


 カーテンの隙間から日の光が漏れてきて、あや女は朝になったことに気づいた。
 目は、さっきから覚めていた。
 カーテン越しのほのかな明かりが、部屋の中を――雑然と積んであるCDや雑誌、少し埃のかかっているノートパソコン、ついゲーセンで夢中になって取ってしまったクマのぬいぐるみなどを浮かび上がらせている。
 あや女は溜息をついた。今日こそは掃除しよう。日曜日だし、天気も良さそうだから洗濯もしなきゃ。
 先週の日曜日も、あるいは五年前の日曜日でも、天気のよい日曜日のすることは、いつも同じだった。掃除して、洗濯する。
 それから。
 やっと、思いきってベッドの上に起き上がった。
 郊外のディスカウント店へ買物に行きたい。ついでに車も洗いたい。そろそろワックスをかけなくちゃ。
 そうだ。ベランダのガラスも磨いとこ。プランターに植えっ放しのハーブの手入れも。ダビングしたビデオテープにもラベルを貼って、整理しとかなきゃ。
 そこまで考えて、あや女は唐突に首を回した。関節がコキコキと鳴る。そして、また横になった。――どうせ計画したことは、いつもその半分もできやしない。
 左手で前髪を引っ張りながら、目が覚めた時から心にかかっていたことを、改めて考えた。
 昨日から、あや女のマンションには男がいる。

 金曜日、香苗の家で開かれたホームパーティに、あや女は行きたくなかった。
 反面、あや女はそのパーティを心待ちにしていた。
 高校時代の友人の香苗は、あや女の紹介で、あや女の会社の同僚の俊成とゴールインした、ということになっている。
 新居に落ち着いて一カ月ほど経ち、友人を集めて軽くホームパーティをやろうということになって、キューピット役のあや女が招かれないはずがなかった。
 あや女は行きたくなかった。
 もともと香苗とは、そう親しい間柄ではない。彼女の趣味のアーリーアメリカン調で統一された(と予想される)スイートホームなんて、見たくもなかった。
 ショート丈のギャルソンエプロンをして、得意げに奥様してる香苗から、新婚旅行のニュージーランドの話なんて長々聞かせられたくなかった。
 それなのに、あや女は金曜日を心待ちにしていた。
 四月の異動でフロアの違う別の課に配属になった俊成に会える機会は、滅多になかった。
 そんなわけで金曜日の夜、あや女は香苗の家のカウチに腰掛けて、赤ワインを飲んでいた。
 知った顔は何人かいた。高校のクラスメートや、会社の同期など。しかし、積極的に話したいと思う相手もなく、ひたすらチーズを食べながらワインを空けた。
 ワイド画面のテレビには、結婚式のビデオがかかっていた。友人代表でスポットを浴びている自分の姿を見て、あや女は溜息をついた。
 が、溜息をついたのはあや女だけではなかった。すぐ横に座っている男が、あや女と同時に溜息をついていた。
 おそらく俊成の学生時代の友人だろう。後輩かもしれない。会社帰りのスーツ姿が多い中で、この男のラフなジーパン姿は浮いていた。
「里見、なに一人で暗くなってんだよ」
 水割り片手に、もう出来上がっている俊成が、その男の肩をバシバシたたきながらあや女と男の間に座った。あや女と目があうと、頼みもしないのにその男の紹介を始めた。
「こいつな、俺の後輩の工藤里見。こんないいかげんそうな奴だけど、高校で数学の先生してんだ。里見、こっちは俺と同じ会社の江口あや女」
「結婚式の時見ましたよ。キューピットやったって人でしょ」
 さとみという可愛らしい名前と、このコップ酒片手の男のイメージが一致せず、思わず顔がにやけそうになっていたあや女は、里見の「キューピット」という言葉に微かに悪意を感じて表情を引きしめた。
 俊成は、里見の言葉のニュアンスなんてまるで気づいていない。
「なにさ、お前まだアパートのこと考えてるの?」
「笑い事じゃないっすよ。話が急すぎて」
「うちに一週間くらいいて、ゆっくり探せばいいじゃん」
「だれがそんな野暮なまね。新婚家庭じゃないっすか」
 あや女にも、なんとなく話がわかってきた。里見はどうやら住む場所に困っているらしい。いくら俊成の好意とはいえ、2DKの社宅の新婚家庭に居候するのは、誰だって気が引けるだろう。
「あら、じゃあ、あや女のところにお世話になったら」
 にこやかに、香苗が三人のところに寄ってきた。頬は赤いが、香苗が酔っているのは酒ではなく、「絵に描いたような幸せな新婚家庭」になんだろうと、あや女は意地悪く考えた。
「あや女、こないだ言ってたじゃない。となりのマンションに強盗が入って心細いって。3LDKのマンションに一人暮らしなんだから、部屋くらい余っているでしょ。男の人がいれば心強いじゃない」
 香苗の言葉の行間には、一人でそんな広いマンションで生活してるあや女への羨みと、男がいないということへの憐れみがこめられていた。あや女は知らんぷりして、ワイングラスを傾ける。
「でも、いくら部屋余ってるったって、一人暮らしの女の家にってのはまずいだろ」
 俊成はそう言って、あや女の顔を見た。あや女も酔った勢いで、俊成の目をじっと見つめた。今まで言えなかった、言いたかった言葉をこの場で言ってやろうかという誘惑にかられる。
 だけど、口から出たのは全然違う言葉だった。
「いいわよ、べつに。そちらさんがその気なら、の話だけど」
 そう言って、あや女は挑戦的に里見を見た。自分でもなぜ里見に挑戦しているのか、よくわからない。酔っ払いの自暴自棄というやつかもしれない。
「俺は泊めてもらえるんなら、八十歳のばあさんとだってかまわねーよ。それくらい差し迫っているんだから」
 里見は、ニヤニヤしながらそう言った。ばあさんの例えにあや女はムッとするけれど、とりあえず手帳に住所と電話番号と簡単な地図を書いてページを破り、里見に渡した。
「おいおい、そんなに簡単なわけ? 会社じゃ堅物で有名なあや女ちゃんが……」
 俊成が、大げさに嘆いてみせる。
「誤解しないでよね。あたしは一週間部屋を貸すだけよ。男なら、とにかくボディガード代わりになるからね。ケビン・コスナーには及びもつかないけどさ」
 あや女は、里見に向かって顔をしかめた。里見も眉間にしわを寄せて、しかめ面を返してきた。俊成は、げらげらと笑い出した。
「ま、とりあえず、里見のことは俺が保証するよ。こいつ、いい奴だから」
「下着がなくなったりしたら、俊成のところに請求にいくからね」
「だれがおまえのなんか。好みじゃねえよ」
 里見が、真っ赤な顔をして抗議した。
「じゃあ、好みの女のなら下着欲しくなったりするの?」
「バカか、おめーは」
「バカあ? 家主さまに向かってバカあ?」
「あ、ごめんなさい。ボクが悪うございました」
 あや女と里見のやりとりを聞いて、俊成は笑い続けている。言い出しっぺのくせに、香苗はこの展開に呆気にとられていた。

 ようやくベッドから抜け出したあや女は、着がえて居間に行った。キッチンからは、味噌汁のいい匂いが流れてきている。
「おはよう」
「おはよう」
 あや女は冷蔵庫から牛乳を出して、コップに注いだ。
 里見は、焼き魚と、きゅうりの酢の物と、納豆をカウンターテーブルに並べていた。
「俺の分しか作ってないからな」
「いいわよ。朝からそんなに食べられやしない」
 あや女は牛乳を飲み干すと、洗面所へ行った。もともと休日は朝食抜きなのだ。
 平日だって、里見のように朝から和食を食べたりはしない。朝の味噌汁の匂いは、なくした昔の日々を思い出して不快になる。
 一人暮らしになってなによりうれしかったのは、親切に味噌汁なんかを作ってくれる人がいなくなったことだ。あや女のためだと言って、「母親」を演じてくれる人がいなくなったこと。
 顔を洗ってから、あや女は紅茶を淹れた。そして、居間で新聞を広げながらゆっくりと飲んだ。日曜版に載っている新刊案内を念入りにチェックする。
「今日は何か予定あるの?」
 ほうじ茶をすすりながら、里見があや女に訊いた。
 変わった男、とあや女は思った。知り合ったばかりの男と一つ屋根の下で暮らすなんて、もっと緊張すると思っていた。酔った勢いで約束したことを、後悔もしていた。
 しかし、里見は不思議なくらい部屋に馴染んでいた。先週買い換えたコーヒーメーカーと同じくらい。目新しさはあるけれど、違和感がないのだ。
「……掃除と、洗濯と、買物」
「日曜日なのにデートもなしってことは、本当に男がいねーんだな」
 里見は湯呑み片手に、あや女の隣のクッションに腰を下ろした。食べたあとの食器を洗わないことに、あや女はちょっと不機嫌になった。
「そういうあんたこそ、困ってる時に転がり込める女の家のひとつもないわけ?」
「たくさんありすぎてね。どの家に行っても、他の奴らに角が立ちそうなんで遠慮した」
「いいご身分ね」
 あや女は立ち上がると、紅茶のカップを持ってキッチンへ行き、他の食器と一緒に洗い始めた。
 里見も横へ来て、洗い終わった食器を拭き始めたので、あや女は少し機嫌を直した。
「なんかさあ、あや女って俺につんけんしてない?」
 会って三日目の男に呼び捨てにされて、あや女は再び不機嫌になった。無言で皿を里見に突き出す。
「……もしかして、昨夜俺がなにもしなかったから怒ってるとか?」
「まさか!」
「じゃあ、なんで? せっかく一つ屋根の下で暮らすんだし、恋人同士のように……」
 あや女の目に浮かんだ殺気に気づき、里見は慌てて言葉を変えた。
「……は無理としても、せめて家族のように仲良くならない?」
 あや女は、里見の顔をまじまじと見た。里見はニコニコと笑っている。背があまり高くないのと、口がちょっと大きいのをのぞけば、まあハンサムと言ってもいい顔立ちだった。
「先生、学校でもてるでしょ」
「あ、やっぱりわかっちゃう? もう、さばききれなくてさ」
 冗談だか本気だか、わかりゃしない。
「……あたし、家族は要らないのよ」
 あや女は最後の皿を里見に押しつけると、居間に戻った。


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